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リー・クアンユーのヒストリーvol.12共産党勢力と呉越同舟 独立掲げ初の選挙で当選

弁護士活動を本格化させるかたわら、私は次第に政治活動にも乗り出していた。毎週、土曜日の午後、オスレイ通りの私の自宅にゴー・ケンスイ、チン・チェー、ラジャラトナム、ケニーら英国留学仲間が集まり、将来の独立を目指す政策を結成しようと考え始めたのである。

天井では強力な旋風機が回っていたけれども、やたらと蒸し暑い部屋だった。しかし、我々は独立闘争をどう合法的に展開するか、共産主義者との関係をどうするかについて真剣に討議を重ねた

植民地シンガポールの政治情勢は、私が英国留学中の4年間に大きく変化していた。私が英国に行く前から始まった共産勢力の武力闘争は次第に激化した。英国当局は、48年6月に「非常事態宣言」を出し、マラヤ共産党を核とする共産主義勢力の封じ込めにかかっていた。

地下に潜った彼らは、50年代に入り、労働組合運動や文化活動を装って勢力を拡大する作戦に転じた。土曜日の午後の我々の集まりはそんな政治の流れを踏まえて、行動計画を練るものだった。

最大の問題は、我々自身が実は共産勢力を必要としていたことである。前に述べたように中国人社会で“エリート集団”と言われる英語教育組は一割に過ぎない。残り九割は中国語教育組である。多くは共産勢力指示だが、選挙に勝つには彼らの票が欠かせない

一方、非常事態宣言で非合法化されたマラヤ共産党や下部組織も、政治活動には隠れみのを必要としていた。穏健で合法的に活動し、英国当局も一目置く英国留学組と手を組みたがっている、と私は読んだ。

私は現実主義者である。英国から独立し、自らの国造りを進めるには彼らと手を組むしかないと腹を固め、早速、行動を起こした。53年、私は弁護を引き受けた学生活動家を通じて共産主義勢力の指導者と目されるリム・チンションと連絡を取ることに成功した。

彼は誠実そうだった。有能な素晴らしい活動家に見え、私は彼らを討論グループの仲間に入れた。54年半ばに人民行動党(ピープルズ・アクション・パーティー=PAP)の設立で合意したのである。多くの政党が口だけで、実際は何もしない。我々は行動して成果を勝ち取る姿勢を示すため党名を「人民行動党」にしたのである。

設立総会は54年11月21日の日曜日の午前10時に開かれた。蒸し暑い日だった。ビクトリア・ホールには野党系紙シンガポール・スタンダードによると1500人、政府系のストレーツ・タイムズ紙によれば800人が出席した。

3分の2がわれわれPAPの仲間、3分の1が他の政党や傍聴人だった。皆、白い服装だった。この党が英国当局ににらまれないように私たちはマレーの穏健派政治指導者トゥンク・アブドラ・ラーマン(後にマレーシアの初代首相)を招待した。マレーの正式な民族衣装だった。

党の目的は「独立、民主、非共産マラヤ」で、シンガポールはマラヤとともに英国から独立することを打ち出した。マラヤとシンガポールは英国統治のもとで実際には一体だったからだ。日曜日にも私は政治集会に参加した。

選挙は55年4月2日に行われた。私はあえて中国人労働者の多いタンジュン・パガー選挙区から出馬、78%の得票で当選することができたのである。他に共産党系の指導者リム・チンションら2人が当選した。PAPは第4党と小政党だったが、政界での旗掲げに成功したのだ。第1党は10議席を獲得した労働戦線で党首のマーシャルが首相となった。

(シンガポール上級相)

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