リー・クアンユーのヒストリーvol.11法律事務所 労働争議、当局と対決 平和裏に譲歩引き出す

英国での学業成績が話題になり、私たちの帰郷は新聞報道された。おかげで仕事はすぐ見つかった。有名なレイコック・アンド・オン法律事務所のジョン・レイコック氏に誘われ、私は弁護士として、妻は事務職として働くことになったのだ。

最初の1年間は見習いである。私たち二人はそれぞれ月500、合わせて千海峡ドルの収入だった。メードの月給は月50海峡ドルだったから、極めて満足のいく給料だったと思う。

初めは英国との気候の違いに悩まされた。熱帯用の服装でも外に出ると、暑くて体中が汗でびっしょりになる。冷房の利いた事務所に戻ると寒けがし、せきが出る。そこで事務所にもどった時は冷水で顔を洗い、服を着替えることにしたほどだ。

シンガポールを見る目も留学前とは変わっていた。議会はあったが議員25人のうち、地元選出は6人だけである。行政の権限はすべて英国が握っていた。政治家の何人かは留学帰りだったが、英国崇拝が抜けきれない。感情的にも心理的にも英国に逆らえないことに私はいら立ちを感じていた。

人々はなぜ独立のために行動しないのか、そんな思いが日増しに強まる中、私は1年間の弁護士見習い期間を終了、51年8月7日シンガポール最高裁判所から正式に弁護士資格を取得した。初めて手がけたのは、マレー人と西欧人の微妙な宗教問題に端を発した殺人事件で、マレー人の無罪を勝ち取った

52年初め、マレー人とインド人の郵便配達組合の代表が事務所を訪ねてきた。英国当局との賃金改定交渉で要求が受け入れられないため弁護活動をしてほしいとの要請だった。弁護料は払えそうにない。レイコック氏に相談すると「好意でやってみたら」との返事だった。

これが私にとって初めて英国植民地当局との対決の場となった。英国当局にとっても四八年に非常事態宣言を出して以来、初の本格的な労働争議だった。私はこの闘争がまさか政治の空気を変えるとは思っていなかった。政府は分が悪く、労働者はいきり立ち、共産勢力が大衆行動に出る条件が出てきたのである。

5月に入っても交渉は決着しない。私はシンガポール・スタンダード紙のラジャナトム副編集長に会い、組合側の言い分の正当性を詳しく説明しておいた。もともと英国当局に批判的だった彼は私と意気投合、闘争の終結まで報道で援護射撃をしてくれた。

5月13日、彼らが平和裏にストライキを始めた日、治安当局は武装グルカ兵を警備に派遣した。翌日、厳重な警備の写真と組合側の穏健な声明を対比した記事が記載されたのだ。

世論は組合側に同情的だった。私は合法闘争を指導、英国仕込みの丁寧な語り口ながら、理詰めで要求の正当性と当局の理不尽な態度を攻撃した。当局側も慣れない事態に混乱、結局、英国側のメンツも立てながら平和裏に賃上げの譲歩を引き出した。共産党とは違い、暴力に訴えずに成功させたのである。

交渉の一部始終は大々的に報道された。マスコミと私の共同作戦の勝利だった。英国当局に立ち向かう弁護士として私の名はシンガポールに知れ渡った。私は多くの労働組合から顧問弁護士の依頼が舞い込み、各界に多くの知己を得た。労働界最大の勢力である中国人労働者とも交流のパイプができてきた。

52年2月10日の日曜日、長男が生まれた。「辰」年にちなみ、頭龍(シェンロン)と名前を付けた。三・六㌕以上あり、骨張っていた。飛び上がって喜んだ。妻は次第に子育てに忙しくなり、まもなく勤めをやめる。

(シンガポール上級相)

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SingaLife編集部

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