リー・クアンユーのヒストリーvol.8 英国留学 感銘を受けた「社会主義」 カルチャーショックに困惑

23歳の誕生日に当たる1946年9月16日、私を乗せたブリタニック号はシンガポールを出港した。家族の皆が見送りに来てくれ、思わず涙が出た。船は英国への帰還兵でいっぱいで、アジア人は香港からの留学生を含めてわずか40人くらいだった。初めての外国旅行で私は早くもカルチャーショックを受けた。

勉学の準備をするための法律の教科書もなかったので、私は香港の学生たちとトランプなどをして時を過ごしていた。ある晩のこと。甲板で英兵たちが同僚の女性兵士たちと物陰であたりもはばからずセックスをしているのだ。慰安所に整列して順番を待つ日本兵の記憶と対照的な光景だと思った。

スエズ運河を船で通る時は、陸上からアラブ人男性が船上の英国女性兵士に下半身を見せびらかしている。理由は分からないが、彼らが英国を憎むあまりのことと後で聞いた。愛と憎しみ、先入観と偏見に満ちた新世界へ私は放り出されたのだ。

10月3日、船は英国のリバプール港に到着した。といっても私のことを知る人など1人もいない。私は、香港のロンドン事務所の担当官に迎えられた香港人学生について、汽車でその夜遅くロンドンに到着した。その日はホテルの地階の2段ベッドの部屋に落ち着いた。

アフリカ人やカリブ諸島から来た20人ほどの学生と一緒だった。これもまた驚きだった。アフリカ人は写真でしか見たことがなかったからだ。

まもなく私は、国際的に有名なロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)に入学を認められた。ところが勉学の雰囲気はラッフルズ・カレッジとは全く異なるものだった。学生も先生も忙しそうに移動し、まるでお客の多いホテルのようである。私はひどいカルチャーショックに悩まされた。

気候、服装、人々、習慣、マナー、街並み、旅行の仕方など何から何まで違う。英語を除けば何にも準備ができていなかったのだ。食べ物や、シンガポールでは心配しなくて良かった日常の雑用にも閉口した。故郷にいた時は、靴はいつもピカピカに磨かれていたし、服は洗ってアイロンがかけてあった。私は、こうしてほしいというだけでよかったのだから。

不満がたまるロンドンの日々だったが、弁護士を目指す意味では大いに勉強になった。最初の学期で私が大きな刺激を受けたのは政治学のハロルド・ラスキ教授である。小柄で目立たない風ぼうだったが、才気あふれる魅力的な語り口で、私はたちまち先生の社会主義概論に引きつけられてしまった。

人間には皆、公平な機会を与えられるべきだ、という教えにいたく感銘を受けた。私たち植民地から来た留学生は、英国人が植民地の犠牲の上に豊かな暮らしをしていると考えていた。だからラスキ教授の考えはとても魅力的に思えたのだ。

私は、富や力を持つ者が人々を搾取するという共産主義の考えには同意する。しかし私は共産主義者を毛嫌いしている。考え方がマルクスの理想主義ではなく、手段を問わないレーニン主義だからだ。シンガポールで日本軍の降伏後に見た共産主義学生の残酷さや、LSEで示したような、若い魅力的な女性を使い、植民地からの留学生を勧誘するといったやり方は受け入れられない。

私は次第に平等、公平で公正な理想国家を、共産主義ではなく段階的に実現しようとする穏健な英国フェビアン協会の考えに共鳴するようになっていった。英国から帰国後も私は協会の季刊誌を愛読していたが、形式主義が鼻につくようになってきたので購読をやめた。

(シンガポール上級相)

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