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リー・クアンユーのヒストリーvol.17突然の独立 中央政府と対立激化 喜びよりも先行きに不安

インドネシアのマレーシア粉砕政府が圧力をかける中、シンガポール州政府とクアラルンプールの中央政府との間で、新生マレーシアの政策をめぐり思惑違いや足並みの乱れが次第に浮上してきた。63年のシンガポール州選挙で、マレーシアの政党は42人の候補者を立てた。彼らは全員落選したが、その出馬自体、マレーシアがシンガポールを放っておくつもりがないことを示していた。双方の反目は、64年の総選挙で人民行動党(PAP)が候補を立てたことで一段と激しくなった。

PAPはマレーシアの他の野党とともに「マレーシア人のマレーシア」を呼びかけていた。各民族が権利、利益、責任を分け合うことで、皆の利益を確保するのが狙いだ。特定の社会や民族の優越性を狙ったものではない。しかし、マレーシアの急進派政治家やマスコミは私の意図をねじ曲げ、PAPはマレー人の特別な権利の廃止を要求するよう、非マレー人をそそのかしていると非難した

人種対立を煽(あお)る演説や報道に刺激され、マレー人と中国人の感情対立が高まった。64年7月、シンガポールの中心街で、イスラム教徒に最も大切なマホメットの生誕祭に際して双方が衝突、23人の死者と454人の負傷者を出す惨事にまで発展した。

この暴動は統一マレー国民組織(UMNO)の急進派政治家が操ったという証拠がある。この危険な政治的たくらみで、民族間の対立感情がさらに高まり、同時に中央政府はシンガポールの経済発展を阻止しようと、外資の誘致を難しくした。

64年12月、ラーマン首相に会うと、政治の見直しを提案してきた。双方は交渉に入ったが進展はなかった。何人かUMNOの政治家は私への攻撃を強めてきた。シンガポールのマレー人を抑圧し、マレーシアの敵だと言うのである。私は中傷だと告訴した。

65年5月になって私は中央議会で「中国人びいき、反マレー人」と攻撃された。翌日、私は議会で中央政府が経済問題を解決できないわけをマレー語で説明した。そしてマレー人への特別待遇をやめ、代わりに全マレー人に教育の機会を設ければ、10年後に科学や近代産業経営を理解できる新世代を育成できると言ったのだ。

演説はマレー語で、農村地帯を代表しているマレー人議員も含め、議場は静まりかえった。それから25年後、私の同僚は、このときラーマン首相はシンガポールと私をマレーシアから追い出す決意をしたと振り返っている。彼らは私が将来マレーシアの首相になると見ていた。私にはそんな幻想はない。マレーシアでは当分、中国人が首相になることはないだろう。

この後、政治の見直しについて話し合いは続けられた。我々は民族紛争避けようと精力的に交渉したが、話がつかないまま、シンガポールはマレーシアから追いだされることになってしまったのだ。

8月9日。中央政府はシンガポールの分離を正式発表した。私は同じ時刻に、ラジオを通じ90語の独立宣言を読み上げた。「シンガポールは永久に自由と正義に基づく民主的主権国家であり、国民の福祉と幸福、公平で平等な社会を目指す」。独立は普通、皆で喜び合うものだが、私たちは先行き不安をもたらすものでしかなかった。

その後の記者会見で、私は涙がこみ上げ、話ができず20分間、中断させてもらった。「将来、マレーシアからの分離協定に調印したことを思い出す度に、この苦悩の瞬間を思い起こすだろう」。私は我々の支持者を裏切った気持ちがした。マレーシア人のマレーシアへの思いが込み上げた。

(シンガポール上級相)

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