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リー・クアンユーのヒストリーvol.2「祖先は客家 中国からの移住4代目」

平凡な父、しっかり者の母

私は1923年9月16日、シンガポールの都心部の中心に近いカンポン・ジャワ通り92番地にあった父方の祖父の家で生まれた。2階建ての大きな造りだった。いまの中心街のオーチャード通りから歩いて行ける距離だが、周囲は今よりずっとひなびた感じだった。家はその後、何度か引っ越した。生家はいま跡形もない。

当時、シンガポールは英国の直轄植民地だった。英国はシンガポールを、東アジアにおける商業・貿易の中継基地や軍事的要衡として見ていた。19世紀半ばから東西貿易の物資集散地として繁栄していたこの島を目指し、中国やインドなどから多くの人が暮らしの新天地を求めて移住してきた

私の祖先もそうした中国人の1人である。漢民族の一種族である客家(ハッカ)の曽祖父が広東省からやってきて、1870年にシンガポール生まれの曾祖母と結婚した。私はシンガポールに住み着いた家系でいえば第四世代である。祖父は名門のラッフルズ学院で初級中学校まで学び、欧州航路の船会社に入社して出世、豊かな家庭を築くことに成功した。

祖父に比べ、父のリー・チンクーンは金持ちの息子というだけだった。専門知識もなく、シェル石油の普通の管理職だった。子供時代の豊かな暮らしをいつも自慢げに話していた。怒りっぽく、私の最初の記憶は四つの時、父の大事な香水「4711」のビンを壊して耳をつかまれ、庭の井戸の上につるされたことである。

母のチュア・ジンニオは親戚同士の話し合いで結婚し、その1年後、父が20歳、母が16歳の時に私が生まれ、後に弟3人と妹1人が生まれ、私は5人兄妹の長男となる。

両親はよく派手なけんかをしていた。理由の1つはばくちで負け、家に帰ってきた父がもう一勝負するため、母に宝石を質に入れるよう迫ったりしたからだ。しかし、母はしっかりとした気性の、やりくり上手で勇気のある女性だった。彼女が1世代後に生まれ、十分な教育さえ受けていれば大会社の重役になっていたと思っている。私の人生に最も影響を与えたのはこの母である。兄妹の皆がそうだと思う。

私の名前は漢字で「李光耀」と書く。英国を崇拝する祖父の強い意向でクリスチャンネーム(英語名)がつき、正式の名前はハリー・リー・クアンユーで、私は青年になるまで皆に「ハリー」と呼ばれていた。2人の弟も英語名が付いている。

祖父は西欧流が身に付いた人だった。船の事務長として現役時代、熱帯で蒸し暑いのに船上での勤務中はいつも上着を着ていた。母は結婚した時、実家からお手伝いさんをつれてきたほどだった。

もっともこれは後に知ったことで、私自身は、このような生家の豊かな暮らしぶりを当時の私を撮った写真で知っているだけだ。

そんな一家の家運は、1927年に端を発し、ゴム相場の暴落を招いた世界大恐慌の中で傾いていった。私たち家族は、都心部から東郊外にある海沿いのテロック・クラウ地区にあった母方の祖父の大きな家に移り住んだ。今のチャンギ国際空港から都心に向かう途中で、住宅街になっている。私は4人の兄妹のほか7人のいとこたちと一緒に暮らすことになった。

貧乏ではなかったが、私の孫たちのようにおもちゃが十分にはなく、テレビもなかった。近所の中国人やマレー人漁師の子供たちとタコ揚げやコマ遊びなどいろいろ工夫しながら遊んでいた。おかげで私は闘争心や勝ちたいという意欲が養われたと思っている。もっとも、これが後の私の政治闘争に備えたものであったかどうかは定かではない。

(シンガポール上級相)

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