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リー・クアンユーのヒストリーvol.15 コンフロンタシ インドネシア脅威に。内外で摩擦、精神的に消耗

1964年10月、東京でアジア発のオリンピック大会が開かれた。日本の人たちには平和で楽しい出事だったに違いない。だが、私にとってこのころは、人生の中で最も精神的に消耗した時である。国内での政治闘争に加え、インドネシアからの脅威がシンガポールにも重くのしかかってきたのである。

インドネシアのスカルノ大統領はかねてマラヤとの合併に強く反対していた。反帝国主義、反植民地主義で第3世界の有力リーダーとなったスカルノ大統領は、シンガポールも含むマレーシアの結成は、新植民地を創出しようとする英国の陰謀である、と決めつけたのだ。

そして同大統領が始めたのがインドネシア語で「コンフロンタシ」と呼ばれるマレーシアとの対決政策である。規模の小さい一種の戦争で、経済制裁と軍事行動からなり、シンガポールに対するテロリズムを狙う部隊の送り込みも含め、マレーシアの「粉砕」を狙っていた。

インドネシア軍はマレーシア領内への軍事的戦略を開始、シンガポールに近いジョホール周辺に落下傘部隊を降下させた。63年9月、シンガポール州議会選挙が行われた直後には、インドネシアの軍工作要員が、シンガポールのカントン公園で3日間に2度、爆発事件を引き起こした。対決政策がいよいよ現実のものになったのである。

私は、59年に首相に就任したあと、60年1月にインドネシアの首都ジャカルタを訪問し、独立宮殿でスカルノ大統領と会談したことがある。妻も同行して談笑し、このころはシンガポールに対しても同大統領は友好的だった記憶がある。

だが、英国との密接な連絡の下で進められたマレーシア結成の動きが次第に具体化し始めた61年に入って、大統領は不快感を示し始めていた。その一員であるシンガポールに対する同大統領の姿勢は容易に想像できるだろう。

62年12月8日、ブルネイで突然、北ボルネオ国民軍と名乗り、兵力3万人と自称する一団が英国植民地当局に対して反乱を起こした。石油の町セリアを占領、英兵がブルネイまで空輸され、反乱は間もなく鎮圧された。英国は、反乱勢力がインドネシアの支援を受けていると見ていた。同大統領自身が「ブルネイで起きた事件は、新興勢力の闘争と無縁ではない。我々は闘っている人々を支援したい」と述べた。

米国のケネディ大統領は、東南アジア地域の安全保障のためにマレーシアを支援すると表明したが、スカルノ大統領は攻撃的姿勢を強めるばかりで、マレーシアとインドネシアの緊張は一段と強まったのである。5月になると日本政府もラーマン首相とスカルノ大統領を東京に招いて事態打開に動き始めた。対決政策は地域問題から国際問題になってきたのだ。

この問題では、対外的にはマレーシアを代表とするラーマン首相が表面に出ていたが、軍事テロや経済関係の断絶などでシンガポールにも大きな影響が出た。国内の共産勢力と闘っていた私は外からの圧力も受けたのである。これは私にとっては、思わぬ誤算だった。

幸いだったのは、シンガポールがマレーシアから独立した直後の65年9月、インドネシアで同国共産党によるクーデター未遂事件が発生、容共のスカルノ大統領が失脚したことだ。代わって実質的に権力を握ったインドネシア国軍のスハルト将軍(後に大統領に就任)は、対決政策を中止し、シンガポールとの友好政策に転換する。インドネシアの劇的な政策転換がなければ、シンガポールはどうなっていたか分からない。

(シンガポール上級相)

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