リー・クアンユーのヒストリーvol.4「学生時代 英国留学目指し勉強 数学や経済学が得意科目 」
ラッフルズ学院は、英国の公立学校のやり方をモデルにしていた。日本の旧高校に当たる。教科書も英語、英文学、英国史、数学、地理などは世界の英国植民地に共通だったらしい。先生もすべて英国民だった。
何年も後のことである。私は英連邦首脳会議の場で他の旧英国植民地諸国首脳と話すたびに、彼らも同じ教科書で学び、シェークスピアの同じ一説を引用できることを知った。
学院は4年制で、私は授業に身を入れず、隣の生徒のノートをのぞき込んで、ついていこうとしたこともあった。それでも、常に学年で上位3位以内に入っていた。学級担任のインド人のキャンボス先生は、「ハリー・リー・クアンユーは将来、高い位置につくであろう」と私に関する記録に書いている。
3年目の担任は英国人のグリーブ先生だった。オックスフォード大学出の20代で、有色人種への偏見がまったくなかった。植民地での勤務経験が浅く英国支配を維持するため現地人との距離を保とうとする普通の英国人の意識がまだなかったからだろう。
彼の指導で私の英語は大変進歩し、3年生で初級ケンブリッジ検定試験で1番になれた。おかげで成績が良かったので、2つ合せて350海峡ドル(マレーの英国通貨)の奨学金がもらえ、70ドルで自転車を買い、学校に通ったものだ。4年目のケンブリッジ上級クラスでも懸命勉強し、シンガポールとマラヤの全学年のトップになれたのはうれしかった。
鮮明に覚えているのは、むち打ちの罰である。1938年の1学期に三度学校に遅れたからだ。いすにつかまって前かがみになり、校長にズボンの上から打たれた。でも、でも何の害も残らず、私は西洋教育者たちがいまなぜ体罰に反対なのか全く理解できない。
両親はいつも私に専門職に就くように言っていた。父は青年時代を無為に過ごし、専門家になる知識がなかったことを後悔していた。だから、私は早くから勤め人ではなく弁護士を目指しロンドンで法律を学ぶことを計画していた。
ところが40年に入って欧州戦争が勃発、ロンドン留学は待たざるを得なかった。代わりにアンダーソン奨学金を受け、当地の最高学府ラッフルズカレッジで学ぶことにした。奨学金は200海峡ドルで授業料や書籍代をまかなうには十分だった。
1928年に創立のラッフルズ・カレッジは文科系、理科系のいろいろな科目があり、私は英語、数学、経済学を専攻した。英語は法律を学ぶのに欠かせないし、数学は得意だったから。経済学はお金の稼ぎ方が学べると思ったのだ。私は単純だったものである。
学期末試験で私は数学では90点以上を取り1番の成績だった。驚いたことに英語と経済学では1番ではなかった。両科目とも1番は後に私の妻となるクワ・ギョクチューだった。
生涯の友ができたのもこの時だった。後に閣僚となったトー・チンチェやシンガポール経済の発展を担ったゴー・ケンスイらはそうだ。私が弁護士活動を始めた時も、多くの友人がシンガポールやマラヤの重要な地位にいた。当時は個人的に知らなくても同窓生だと分かるとすぐに打ち解けた。
奨学生は寮に住むことを義務つけられていた。しかし、居心地の良くない部屋になじむのに苦労した記憶がある。中国人学生に対するマレー人の反感を初めて経験したのもここである。学生同士のいたずらやいじめもあったが、いまや懐かしい思い出である。
このころ、ニュースで日本が中国大陸侵略の勢いを強めていることは知っていた。けれどシンガポールまで攻めてくるとは夢にも思わなかった。英国がそんなことはあり得ないと、うまく宣伝していたからだ。
この記事を書いた人
SingaLife編集部
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