リー・クアンユーのヒストリーvol.27 引退余年かけ後継者選考政府が誤らぬよう支える

1990年11月28日、私は公式に引退し、首相の座をゴー・チョクトン氏に譲った。その時の模様はテレビで放映された。多くの人たちの目には私が感傷的になっていると映ったらしい。それ以来、私が実際に権力を手放したか、私の影響力が本当に弱まっていくのかが、人々の話題となったと記者たちは報じた。西欧諸国のメディアもそうだった。

だが、私に言わせればこれらは重要な点を完全に見逃していた。そういうくだらない観測をする人たちは私の辞任が私自身と国家に対してどういう意味をもつのか理解していない。私は、随分前からこの時に備えていた。だから第一線からいつ退けるか、待ち遠しくて仕方がなかったのである。

実は私は1976年までに、最も大事なのは仕事を引き継いでくれるチームの養成だと決めていた。それができないと我々の将来はおぼつかない。それには人材が必要だ。同時に首相引退の時期を私が65歳になる1988年に設定した。

引退が早ければ早いほど、まだ動けるし、後継チームが成功するように後押しもできる。引退が遅ければ、それだけ老いて動きが鈍くなり、後継者たちがうまくやっていけない可能性も大きくなるからである。首相の後継者さがしは実は68年から始めていた。何人かが浮かんだ。皆、学業成績は素晴らしく優秀だった。しかし、条約文を書いたり論理的に話ができたりするだけでは物足りなかった。

現実的な考えをし、政策を貫徹するタフな性格が必要なのである。その後、最有力候補はトニー・タン氏、ゴー・チョクトン氏らに絞りこんだ。しかし、私自身は後継者を指名せず、若手閣僚がゴー氏を私の後継者に決めた。私が指名しても、皆が同意しなければ彼を支持しないこともありうる。それでは彼も成功しないからだ。が、実際には私が引退の目標とした88年が来ると彼が「インドネシアのスハルト大統領やマレーシアのマハティール首相を向こうに回すのはまだ荷が重い。2年間の時間の余裕をいただきたい」と言ってきた。仕事は彼に次第に任せるようにした。「君ならどう考える」「君の見方はどうだ」などと判断を促していったのである。

そして、90年になった。彼はシンガポール独立25周年まではいて欲しいという。切りがいいという理由だった。1965年から90年の25年間である。独立記念の8月を過ぎて私は残務処理をし、彼の準備も整った11月に引退したというのが実情である。西欧のメディアは、西欧とは違う後継者問題への取り組みの実情が分かっていない。

ゴー・チョクトン氏と彼の内閣の失敗はとりもなおさず私自身の失敗である。良い政府をしっかりと継続するのは大変なことなのだ。私は各国の政治指導者の後継者問題を注意深く観察してきた。共産圏各国ばかりでなく英国でさえも後継者選びを間違えると大変なことになると分かっていた。だから私は懸命に考え抜いたのだ。

70代になって私は何をする必要があるのだろう。私は人生を楽しみたい。時間をどう使ったらいいのだろう。これからどれだけの時間が残されているかも分からない。私がいまやりたいことは政府が判断を誤らないよう、私の経験をささげることである。大きな目標を目指して何かをしろとは言えない。それは彼らが若い世代とともに取り組むことだ。ただ、私もこうすると問題が起きるということだけは知っている。

(シンガポール上級相)

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