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リー・クアンユーのヒストリーvol.9 ケンブリッジ 静かな町で勉学進む 独立胸に労働党候補 応援

ロンドンでの生活で私は体力を消耗した。あちこちへ移動するのに、かなりの時間がかかる。地下鉄やバスに乗ると、もう静かに勉強したり、黙考したりするエネルギーがなくなった。

ある日、私は学校の予定表を見て、講師の一人がケンブリッジから来ていることを知り、大学の様子や暮らしぶりを聞いてみた。小さな町で大学がその中心になっているという。ロンドンとはかなり違う。早速、現地に出かけた。1946年11月のことだった。ラッフルズ・カレッジ出身のシンガポール学生が案内してくれ、責任者にも会えた。事情を話すと、同大学フィッツウィリアム校の法学部に入学を認めてくれると言う

ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)入学で世話になった教授に、手紙でケンブリッジ転学の気持ちを伝えると「あなたを見損なった」との怒りの返事が返ってきた。本当に申し訳ない気持ちだったが、今、振り返ってもロンドンには住まなくてよかったと思っている。

3カ月後に私はケンブリッジに引っ越した。静かな街の生活は快適だった。私は自転車で通学した。食べ物にも次第に慣れ、ゴルフも始めた。ハンディは24だった。1クラスは30人でLSEの200人よりはるかに少ない。懸命に勉強した。1学期の末に事務局に張り出された成績を見ると、私の名前が最優秀グループに入っているではないか。

私は直ちにシンガポールの家族に電報でその旨を報告した。この間、私は英国留学に来たフィアンセのクワ・ギョクチューとひそかに結婚していた。この事は次回に述べる。

生活はエンジョイできるようになったが、気持ちは次第に沈んでいった。英国の植民地統治能力に疑問を抱きはじめたからだ。人種差別も少なからず経験した。「空き室」との看板のある家でも、私が中国人だと分かると契約済みと言われた。

私はシンガポールの独立を胸に描き始めていた。マラヤの学生たちが独立を目指すマラヤ・フォーラムにも積極的に加わり討議を重ねたものだ。当時、マラヤとシンガポールは英国の支配下で事実上一体だった。私が初めて植民地主義に反対する政治演説をしたのもここだ

我々は、反植民地主義だが、同時にマラヤ共産党とは一線を画すため、非暴力主義を掲げていた。インドとパキスタンは47年に、ビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)は48年に独立を獲得していた。英国の力は落ちており、自分たちも独立できるとの確信を仲間の多くは持ち始めていた

49年5月、ケンブリッジの卒業試験で私は1番だった。私は植民地の独立に前向きな労働党に近づいた。彼らは植民地からの学生に同情的だった。保守党にとっては、植民地は大きな利益が出る投資先に過ぎなかったのである。

私は、50年2月の総選挙で労働党から出馬したケンブリッジの友人、デイビッド・ウイディコム候補の選挙運動を手伝った。選挙運動のやり方を勉強したし、小学校や教会ではちょっとした応援演説もやった。マラヤ共産党のリーダーの一人とも連絡を取っていた。何年か後に知ったことだが、英国治安当局は私を共産主義関係者としてマークしていた。

50年6月、私とクワ・ギョクチューは英国の弁護士資格も得た。私は英国での四年間の留学期間に満足している。英国は戦争に傷ついたが、人々は戦争で受けた損害についても打ちひしがれず、勝利にも決して高慢にはならない。英国の威厳というか、政治構造を組み上げる政治家の能力にも感心した。最も感銘を受けたのはそのシステムの公平さである。

(シンガポール上級相)

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