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リー・クアンユーのヒストリーvol.10結婚 恋人の英留学に奔走 学校や親に秘密で決める

英国留学は政治家としての私にとり、将来への大きな跳躍台だったが、個人的にも大きな節目だった。クワ・ギョクチューと結婚したのである。

彼女と知り合ったのは日本軍の占領時代だ。生活をまかなうため、私がガムの事業を一緒に始めたラッフルズ・カレッジの卒業生の義妹だった。化粧もしていなかったが知的で魅力的な女性で、愉快だけれども内容のある会話が楽しめた。次第に親しみを感じ始め、44年9月の私の21歳の誕生日には中華レストランに招待するまでになった。彼女を外へ誘ったのはこれが初めてである。

当時、若い女性が男性の誕生日祝いの招待に応じることはすでに意味が込められていた。ガム作りは44年末にやめたが、私は彼女の家への訪問を続けていた。日本軍にとって戦況は日増しに悪化していた。

シンガポールが日本軍の支配から解放された後、学業のほかに私の胸に去来したのはもう一つ、実は高まる彼女への思いだった。

私が彼女に英国留学の決意を伝えると「待っている」という。その彼女からケンブリッジの私に電報が届いた。英国留学のための女王奨学金を得たというのである。ところがシンガポール植民地当局の話だと1947年10月に始まる新学期には空席がない。これでは48年まで待たなければならない。

私は彼女をケンブリッジ大学へ入れようと奔走した。「大変優秀な学生だ」と紹介し、大学当局も特例として受け入れを決めてくれた。ガートン校である。十月初め、彼女をリバプール港で迎えた時はうれしかった。

だが、やっかいな問題が起きた。学校指定の下宿はガートンから数マイル離れており、私はギョクチューの近くに移ろうとしたがだめだった。寮監から「ガートン校はあなたが彼女と早く結婚することを良くは思わないだろう。最初はほとんど勉強しなくなると考えるのは自然である」と警告書がきた。私はいささか戸惑った。

ギョクチューと私は英国での生活について話し合った。クリスマス休暇の12月に内々に結婚し、家族はもとより周囲には内証にしておいた。彼女の両親は驚くだろうし、ガートン校当局も認めないだろう。奨学金の受給に支障が出る恐れもあったからだ。

我々はストラッドフォード・オン・エイボンで結婚登録所に通知し、2週間後に正式に結婚した。結婚で生活は変化したけれども、我々は着々と学究生活を続けた。試験が49年5月に行われた。6月に大学評議員会館に張り出された結果は、私が最優秀、彼女も一番だった。

我々は1950年8月にシンガポールへ帰国した。私が法律事務所への仕事探しを済ませると、私は直ちに彼女の父親に結婚の許可を求めに行った。彼のあぜんとした表情が忘れられない。中国人の家庭では普通、親が来て話を切り出すのに、この厚かましい若者は父親の同意を当然取り付けられる、という顔をしていたからだろう。

9月30日、私たちは3年近い秘密結婚生活の後、当時最高裁判所の建物の中にあった結婚登記所に改めて結婚届を出した。午後遅く、私の両親が親類や多くの友人たちを招き、シンガポールで最高の会場であるラッフルズ・ホテルで披露宴を開いてくれた。

私たち夫婦は一般的な習慣に従ってオクスレイ通りの38番地にある私の実家に同居することになった。母親は家具を少し買ってはくれた。しかし、彼女は大家族に溶け込むことが容易ではなかったようだ。私は結婚は人生の最も大切な事だと思っている。人間は誕生は選択できないが、結婚相手は選べる。後悔しないよう慎重にすべきだ。

(シンガポール上級相)

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