リー・クアンユーのヒストリーvol.16アフリカ訪問 国際社会に立場訴え 民族融和の重要性を痛感

インドネシアのスカルノ大統領の圧力を受ける中、我々にとって良かったのはアントニー・ヘッド氏がクアラルンプールの英国高等弁務官(大使に相当)として赴任してきたことだ。英政界の重鎮で国防相も務めた人である。英国首相が、職業外交官ではなく有力政治家を送ってくれたことは私にとっても有り難いことだった。

彼は頼りになる男だった。彼の忠告は私が内政に取り組む上でも非常に有益だった。ナイジェリアで3年間、高等弁務官を務め、植民地が自治政府、国家へと発展する難しさを知り抜いていたからだ。彼がいなければ、マレーシアとシンガポールの歴史はかなり違ったものになっていたと思う。

そのヘッド氏は、マレーシアがスカルノ大統領の国際的な宣伝攻勢に対抗するには、閣僚をアフリカの英連邦諸国に派遣したらよいと言う。国連など国際社会で支持を得るためだ。「ラーマン首相はアフリカ人は鈍いと思っている」と私が話すと「オックスフォードを首席で卒業し、ラーマン首相より優秀な人はたくさんいる」と彼は大笑いした。

彼はその代表には、タフで行動力のある私が適任だと言う。しかも、私が行って国際的に有名になれば、ラーマン首相も内政面で私に強いことが出来ない、とまで言うのだ。私がラーマン首相に相談に行くと驚くほどあっさり承認してくれた

私たちアフリカ訪問使節団は64年1月にシンガポールを出発した。自由に動けるよう4発エンジンのターボプロップ機をチャーターした。「リーが行けばマレーシアではなく、自分を売り込む」と議会で反対の声も出た。団員にはサラワク、サバなどの他地域の代表も加わった。35日間でアフリカ17、8カ国を回るという強行軍である。

だが、マレーシアはそのころまだアフリカに在外公館がなく、訪問日程作りは難航した。ロンドンやカイロ各国大使館を経由したり、時には英国大使館に世話になった。マレーシアが英国のお抱え者に見える恐れはあったが、外に手がなかった。

最初の訪問国はエジプトだった。インドネシア国営アンタラ通信はエジプトはインドネシアに好意的、と報じていた。しかし実際にはナセル大統領は2時間の会談中、非常に友好的でマレーシア訪問の招待を受けると言ってくれたのだ。エジプトはマレーシアをスカルノ大統領の言う新植民地主義の国ではないと示唆したことになる。私は17カ国からマレーシアへの支持を取り付けることができた

強く考えさせられたのはかつての北ローデシア、現在のザンビアの首都ルサカである。首長公邸は設備が整い、立派に運営されていた。私は70年に非同盟諸国首脳会議、79年には英連邦首脳会議でルサカを訪れたが、その度に悲しくなった

初訪問の時は飛行場からの沿道には花が咲き乱れ、緑が美しかった。それが6年後にはバラが雑草に変わり、その9年後には雑草さえも惨めな状態だった。公邸の庭にも動物や小鳥はもうほとんどいそうになかった。民族紛争で国内政治が混乱してしまったのだ。

私は新興国が植民地から独立する過程で、指導者たちが社会的な一体感を保つことがいかに大切か貴重な教訓を得た。指導者が国内の少数民族の代表に政治参加を求めるのでなく、排除しようとする間もなく国はおかしくなる。しかも生かじりの社会主義や富の再分配の理論に基づいた政策を採用すれば、宗主国も加わってうまく形成されてきた社会は破滅してしまう、と肝に銘じた。

(シンガポール上級相)

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