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リー・クアンユーのヒストリーvol.20 仕事への自負に感心 生産性向上で協力を得る 別の日本人

1962年5月、私は初めて日本を訪問した。外務省が用意してくれた帝国ホテルのスイートルームから景色を見て、日本経済が戦災から立ち直りつつある印象を受けた。池田勇人首相との会談で私は日本軍の残虐行為の「血の賠償」問題を取り上げた。首相と政府高官たちは非常に丁重で、過去の苦い思い出が蒸し返される前に問題を解決しようと非常に気を使っていた。

シンガポールが独立した後の66年10月になって、この賠償問題はようやく決着した。68年10月、初の公式訪問で私は妻と皇居で昭和天皇、皇后両陛下の午さん会に招待された。

3年半のシンガポール占領中、彼は神だった。私は軍報道部で皇居に向かい、最敬礼させられた。目の前の控えめな小柄な人がその天皇とは。友好的で、丁寧なやさしい声だった。その天皇がシンガポール人が被った苦しみに遺憾の意を表された時、私は黙ってうなずくだけだった。それが一番ふさわしいと思ったからである。

私の日本人に対する印象は何度も変わった。日本人にはいつも驚かされる。戦前、シンガポールの日本歯科医院や商店で得た印象から、私は日本人は礼儀正しく親切だと思っていた。たが、日本兵は信じられないほど残酷で、私たちは恐怖の三年半を過ごした。この記憶を消し去ることは難しい。ところが、降伏後、日本兵は模範的捕虜になり、良心的で懸命に働き、シンガポールの街をきれいに清掃して去っていった。

60年代にはすでに高品質の電気製品がシンガポールに入り始め、70年代にはそれが加速し、日本製品がシンガポールにもあふれ出した。70年代に四国の高松市のホテルで県知事の招待を受け、食事をした時のことだ。デザートの時間になって三十代の料理主任が出てきて、柿(かき)を見事にむいて見せてくれた。話を聞くと彼は材料の切り方や簡単なことを5年ほどやり、料理主任になるのに15年かかったという。彼は自分の仕事に大きなプライドを持っていた。

私は日本の文化の中に、自分の仕事をきちんとやる人を尊敬する何かがあると思う。何かをやれるなら、どれだけ上手にやれるか見てみようというわけだ。

94年のことだった。東京の帝国ホテルで靴磨きコーナーを受け持つ年配の2人を見た。今まで見たこともないほど靴をきれいに磨き上げたのだ。日本人は自分の仕事に本当に誇りを持っている。何かをやる時は、能力の最大限までやる。そのことが日本の成功を導いたのは間違いない。私は日本から生産性向上で大いに学んだ。管理職と工場従業員が協力する、真の意味の人材開発である。

我々は72年に国家生産性委員会を発足させた。私は日本生産性本部に同様のセンターをシンガポールに設立したいとお願いした。会長の郷司浩平氏が誠心誠意協力してくれ、わが方の生産性は大いに向上した

80年代までに日本は工業国家に復活し、成功した。1989年2月、私は首相の最後の仕事の一つとして東京の新宿御苑で行われた昭和天皇の大喪の礼に参列した。日本の占領時代を思い出しながら、私は天皇の軍隊が41年12月8日に奇襲攻撃をかけた米国のジョージ・ブッシュ大統領や英国のフィリップ殿下らとともに大喪に出席していることに複雑な思いがした。時代の移り変わりは本当に劇的である。

(シンガポール上級相)

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