リー・クアンユーのヒストリーvol.6 「占領生活 やみ市商売、経済を知る 日本軍報道部で英語の仕事 」
日本軍占領下の生活が次第に長引いてきた。父は仕事を失ったままで、私と四人の兄妹も学校がなくなってしまった。世の中の動きは止まってしまったのだ。何事をするのも危険な感じがしていた。しかし、どんなに日本軍がいやでも人間は生きていかねばならない。その現実を受け入れなければならなかった。
占領軍当局にいる日本人や日本語が分かる人を知っていることが生きる上で大切になってきた。「安全な人間」との証明書は兵士に尋問された時に貴重だった。家にこもっているのが一番安全だったが。
ある日、オーチャード通りの東端にあるキャセイ映画館の前を通ると、入り口前に群衆が集まっている。のぞくと柱の上に中国人男性の首が載せてあり、近くの人がこうした運命を避けるための心得が書いてあると説明してくれた。この男は略奪で捕まったのだ。
私の英語力は新たな支配者の下で意味がなくなったことを感じた。社会のすべての価値が変わり、私は1942年5月から3カ月間、日本語の勉強もした。幸い祖父には友人の日本人がいて、私は彼の会社で働き始めた。会社が閉鎖となった後、今度は日本の配給機関の事務員に就職した。コメや塩、たばこなどの生活必需品である。
43年9月ごろ、私は日本が発行していた「昭南新聞」の広告で日本軍報道部が英語編集者を求めていることを知り、応募した。米国生まれのジョージ・タケムラに面接され合格した。仕事はロイターやAP、中央通信、タス通信などのモールス信号文章を完全な英文にすることだった。受信設備が不備で文章が不完全なため、私は文脈から意味を判断せざるをえなかった。
午後5時半から午前9時までが勤務時間で他のスタッフと交代制で働いた。おかげで私は日本やドイツ、イタリアにとって日増しに悪化する戦況を刻々知ることができたが、一階には憲兵隊がいて、情報を外部に漏らさぬよう厳しく見張っていた。44年の末まで私はここで働く。
私がやめる前、私が外部に情報を漏らしていると憲兵隊に嫌疑を掛けられた。マレー半島の安全な地域へ逃げようと思ったけれども、かえって危険との友人の忠告があった。私自身、尾行されていることをひそかに確認して報道部にとどまった。今思い起こしても本当にみじめな時代だった。
人々の生活は日増しに苦しくなっていった。43年末ころには、日本軍の輸送船が連合国軍に撃沈され、補給物資が届かなくなってきたのである。母は手に入らない小麦粉やバターの代わりにタピオカ粉やココナツミルクで菓子を作り、売っていた。
私も生活の足しにやみ市でブローカーを始めた。ウイスキーやたばこを買い占め数週間蓄えておき、値上がりしたら人通りの多い通りに立つやみ市でさばいた。母は貴金属を売りたがっている中産階級の婦人に知り合いが多く、私はそれらを日本人と取引する人に売っていた。私はここで経済の現実を知った。
限られたスペースでは3年半の日本軍占領時代の苦渋をほんの一部しか明らかにできないのが残念だ。この不幸な時期の体験は、後に政治家になる私にとって非常に重要で、貴重な教訓を与えてくれるものだった。
銃口の下で人間の行動、動機、衝動のありさまをこの目で見ることができたからだ。統治する上で政府や軍事力が果たす役割を認識し、理解することは、こうした経験がなければ得られなかったと考えている。自分の運命は自分で決めたいとの気持ちもここで芽生えたのである。
(シンガポール上級相)
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SingaLife編集部
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