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リー・クアンユーのヒストリーvol.18 国家建設へ 独り立ち、決死の覚悟産業構造を根本的見直し

1965年8月9日、シンガポールはマレーシアから突然追い出される形で独立した。私は63年のマラヤとの合併への支持を求める際、国民に対し「我々は単独では生存することはできない。我々の経済や政治はマレーシアの一部でないと成り立たない」と説明していた。これで、有権者の7割が合併を支持してくれたのだ。

しかし、合併はうまく行かず、我々は一転、独立を押しつけられた。人口200万のシンガポールは生存できない状況に追い込まれたのだ。私も、人々に合併を最優先で訴えてきた同僚たちも、がくぜんとした。すべての努力が無になり、支持者を裏切ることになった。マレーシアとの分離文書に署名を拒否すべきだったとの声も出た。

独立のニュースの受け止め方は様々だった。新たな門出を祝って爆竹をならす商人たちもいた。勤め人は先行き不安な表情も見せていた。しかし、2年間のマレーシア内における厳しい経験から特定の人種、言語、宗教が政治を支配することだけは断じて許すまいと自覚はできていた。不幸な問題が起きるだけなのだ。

マレーシアのラーマン政権が我々を追い出した本当の理由は、我々に政治的権利の行使を許し続ければ、将来、彼らが負けると見越したからだ。マレーシア団結会議を結成していた人民行動党(PAP)や各野党は非マレー人を結集、マレー人にも食い込むだろう。PAPの政策と姿勢はシンガポールのマレー人指導者に揺るぎない信頼を得ていた。享楽を求めたり、私腹を肥やそうとはしなかった。

ラーマン政権は当初、独立シンガポールは存続できず、1、2年後にシンガポールが今度はマレーシアが示す条件を全面的にのむ形で再びマレーシアに加えてほしいとすり寄ってくるもの、と考えていた。我々と国民はシンガポールが独り立ちするために必要なことは何でもやる決意を固めていた。

我々は、マレーシアの一部であることを前提に考えていた国の経済発展策を考え直すばかりではすまなかった。独立国として安全保障や外交まで自力で手がけることになり、軍や外交まで自力で手がけることになり、軍や外務省の創設など独立国としての体裁を整え始めた

私たち政府の緊急課題は四つあった。一つは、安定した政治、社会環境を作ることである。国民の数で中国人が多数派でも、誰にも公平な社会にする必要がある。次は安全保障だ。マレーシア時代にインドネシアから軍事的脅威を受けたことは記憶に新しい。独立国として我々は領土保全と主権を守る防衛能力を持たねばならない。

三番目の経済育成はさらに大きな問題だった。シンガポール経済は一次産品の輸出や製品輸入などでマレーシア貿易の総額のうち24%を占めていた。我々は産業構造を根本的に変えなければならない。第四に独立国として国際社会の承認を得ることも必要だった。9月には国連に加盟、英連邦にも10月には加盟した。

基本的にはマレーシアと各国との外交関係を引き継いだが、対米政策などでマレーシアと違う場合は独自に始めなければならなかった。振り返れば、60年年代前半の共産主義者や民族主義者との闘いを抜きにシンガポール独立はなかっただろう。61年に独立していたら、国はいまごろ崩壊していた。

これらの経験を通じ国民は現実的で冷静になれたのだ。前途多難が分かっていたから言葉とか文化の違いで争わず、落ち着いて経済を発展させ、生き延びてこられたのだ。独立の際、私はその後の生涯でシンガポールを存続させるばかりでなく、繫栄に導くことになるとは思いもしなかった

(シンガポール上級相)

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