リー・クアンユーのヒストリーvol.14マラヤと統合、国民投票で支持を得る 共産勢力が反発し党脱退

人民行動党(PAP)は選挙公約に従い、新政策を次々に打ち出した。経済全体の発展を担う経済開発庁、国民に安価で良質な住宅を提供する住宅開発庁などを新設、乏しい予算の中で緊張度の高い政策を優先して実施する姿勢だったのである。

だが、実のところ、PAPの内情はそれどころではなかったのだ。私たち主流派と共産勢力との主導権争いが一段と厳しくなり、政府としての本腰を入れて経済開発に取り組める状況ではなかった。私は共産主義勢力と毎日のように勝つか負けるかの政治的闘いを繰り広げていた

闘いの焦点がマラヤとの合併だった。私はシンガポールの将来はマラヤとの合併にあると見ていた。両者はわずか幅壱1キロメートルのジョホール水道で隔てられているだけで、歴史的、社会的つながりは深い。私自身、弁護士として年3、4回はマラヤ各地に出張していたし、年1、2回は家族とマラヤの高原で1、2週間の休暇を楽しんでいた。

双方は日常的な経済関係も密接で、英国の統治政策上の都合で分かれていただけである。我々シンガポールは単独で独立はできない。輸出品の多くの原料や製品の大半がマラヤ製品だ。シンガポールの将来を考えた場合、合併は国民のためにも最も現実的な道だったのである。

だが、政治的には合併話は別の意味を持っていた。かねて親英国で知られるマラヤのラーマン政権は強力な反共産主義である。両者が合併すればその政策は当然、シンガポールにも適用される。共産主義勢力にとって不都合な事態になるのだ。彼らはシンガポールの単独独立を主張、党内の主導権争いが激化する一方だった。

ラーマン首相は61年に記者会見で「シンガポールの共産主義化を防ぐにはシンガポールを自国に取り込むしかない」と表明した。私はクアラルンプールで彼とこの問題で話し合った。英国留学のころからの知り合いで話し合いはスムーズに進んだ。

この情勢に、共産主義勢力は強く反発、ついに私たちとの共闘に見切りを付け、61年7月26日、PAPから脱退したのである。「社会主義戦線」を設立してPAPの政敵として闘う姿勢を打ち出したのだ。

62年9月、マラヤとの合併をめぐる国民投票を実施した。私はラジオを通じて、国民に合併の必要性を懸命に訴えた。社会主義戦線は投票のボイコットを呼びかけたが、投票では国民の73,8%が合併を支持してくれた。

1年後の63年9月、シンガポールは正式にマレーシアの一部となった。トゥンク・アブドラ・ラーマンがマレーシアの首相、私は英領シンガポール自治国政府首相からマレーシアのシンガポール州政府首相に変わったのである。

私は、直ちに州民の信を問うため合併から一週間後の9月21日、州議会選挙を実施した。結果は人民行動党(PAP)が46,5%で三十七議席、社会主義戦線は33%で13議席、他の政党が一議席だった。獲得議席の数ではPAPの地滑り的勝利と言えたが、私は社会主義戦線への支持が根強いことを改めて感じた。私自身、当選はしたものの、得票率は58,4%と下がったのである。

私は社会的不安を巻き起こそうとする社会主義戦線の人々を大量に拘束して政治力をそぐ一方、中国系市民の支持獲得を狙いに市民サービス作戦を展開する。

だが、事態は私が合併で期待した方向には動かなかった。それどころか、合併は国の内外で私の想像を超える反応を招き、シンガポールの運命は変わってしまったのである。

(シンガポール上級相)

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SingaLife編集部

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