リー・クアンユーのヒストリーvol.7「解散 古き良き時代戻らず 共産党拡大で社会混乱」
1945年9月12日午前10時半、私は日本軍の降伏式が行われる市の中心部にあるシティーホールへ歩いて行った。板垣征四郎大将を筆頭に日本軍将官が英国の憲兵に付き添われて到着した。群衆から罵声(ばせい)を浴びせられる中、彼らの足取りはきぜんとしていた。
45分後、英軍東南アジア司令官のマウントバッテン卿が将軍、提督、連合国軍のインド人、中国、オランダの高級将校を伴い、会場に姿を現した。彼は右手で海軍の帽子を高く掲げ、兵士にエールを送った。シンガポールは解放されたのである。シンガポールの皆の気持ちが高揚した一瞬を私ははっきりと覚えている。
日本軍占領の悪夢は去り、良き時代の訪れを予感したのは私だけではなかったろう。英国が戻ってくるのだ。姿を現した英国兵は「プレーヤーズ・ネイビーカット」や「555」などのたばこやウイスキーをくれた。途絶えていた牛肉の輸入も始まり、我々は大いに感激した。
だが、3カ月もたたないうちに人々の期待はしぼんでいった。戦前の植民地のビジネスは再開されず、公務員さえ職がなく、かつての生活はいっこうに戻ってこない。電気や水道、道路なども回復せず、我々は皆、古き良き時代への期待が大き過ぎたと悟るようになった。
意外だったのは、我々シンガポールの人々の中に英国の復帰を望まない勢力がいたことだ。中国語しか話さない中国人たちで、英国当局者や民間人との接触も限られていた。彼らは共産主義の中国に忠誠を誓っていたのだ。そして中国共産党の強い影響下にある華人政党のマラヤ共産党を支持していた。機関誌は中国語だった。
46年、英国はシンガポールを直轄植民地として維持する方針を発表した。共産主義者が日本軍が降伏し、英軍が本格的に戻ってくる前の力の空白をぬって出て来た。中国八路軍に似た制服を着て、各地で武力行動を始めたのである。日本軍協力者にはリンチをし、彼らへ非協力な人々を脅迫した。私も一人の密告者が刺し殺されるのを目撃したが、私自身は日本の事務所に勤めていただけなので狙われなかった。
ところでこのころ、私たち一家はお金をかき集め、オーチャード通りの南側にあるオックスレイ通りにある家を借り、引っ越した。五つの寝室とメード部屋だった三部屋がある大きな家だった。以降、現在まで私はこの家を自宅としている。
英国軍政当局は共産勢力の拡大に神経をとがらせていた。タンジュン・パガールの造船所では7千人の労働者の反英国ストライキが始まった。46年1月29日にはゼネストが行われた。店は労働者の圧力で強制的に閉鎖され、人力車や屋台も営業を見合わせた。共産勢力のどう喝、脅迫があったのだ。
責任の一端は英国にある。彼らは抗日戦争に共産勢力も利用、表彰までして権威づけたいきさつがある。人間の営みに関する私の考えはこうした戦後の出来事でまとまった。日本軍の占領期間が人間の生きざまを学ぶ大学だったとするなら、解放されたシンガポールの最初の一年間は大学院課程だった。私の思い出にある30年代のよき植民地時代とは違う世界になっていた。
この間、頭の訓練は中断したままでのラッフルズ・カレッジでの勉学だった。いまさら復帰しても状況が元に戻るまで時間がかかると思い、直接、英国留学に出る決意をした。私のラッフルズ・カレッジの学業成績を送ると英国側は受け入れが可能という。すさんだ社会の中で私の夢は一気に膨らんだ。家族も喜んでくれた。
(シンガポール上級相)
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SingaLife編集部
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