リー・クアンユーのヒストリーvol.28 先進国への道 外資導入し産業育成 自由経済、機会均等も重視
発展途上国から出発したシンガポールの一人当たり国民総生産(GNP)は、現在、米ドルで欧米主要国とほぼ同じ水準にある。「シンガポールの成功」と言われるたびに、私は1967年のロンドン滞在中の出来事を思い出す。
ホテルに大手小売業マークス・アンド・スペンサーの会長が訪ねてきた。エジプトのナセル大統領と親しい私に対し、同大統領がイスラエルと和平を結ぶよう説得してほしいと頼んできたのだ。続けて「貴国で雇用拡大のため釣り針生産はどうか」という。和平工作の見返りにと思ってのことだろう。私が興味を示すと、ほどなくノルウェー企業が進出、鳥の羽根を付けたマス釣り用針の生産を始めた。釣り針生産に関心があると思われるほど独立直後のわが国経済は厳しい状況だったのである。中東和平は進まなかったが。
65年のマレーシアからの独立に続き、英国が軍事基地の撤退を発表した。またも衝撃である。基地関連の経済活動は当時のシンガポールのGNPの五分の一に当たり、生き残りが至上命令となった。社会主義か、自由主義経済かという議論は二の次だった。
われわれは結局、教育、雇用、健康、住宅といった面で機会均等を重んじる社会主義の考え方を取り込みながら自由主義経済で行くとの結論に達した。幸いなことに60年代の世界経済は順調だった。勤勉で意欲を持つ人々、共通の目標と明確な方向とリーダーシップ。これらわが国の特徴が、逆境を福に転じる重要な要素だった。
国は米国、西欧、日本などの多国籍企業を取り込みながら経済を発展させた。英軍基地は製造業や船舶修理サービス、通信、金融、保険などのための産業基盤に変身したのである。歴史的に見てシンガポールは、資本やノウハウ、経営者、技術者などを外国から導入することには何の抵抗もなかった。
結果的には1960年に11.4四%に過ぎなかったGNPに占める製造業の割合は77年には25.4%に上昇、外国企業資産は65年から75年の10年間に24倍の37億ドル以上に達したのである。私は、外国の経験を学ぶことを躊躇(ちゅうちょ)しなかった。産業構造の転換に向けて意識的に工作機械や電機メーカーなど技術集約産業の誘致に力を入れた。若手技術者の育成は外資の進出や投資を促進すると考えたのである。政府側と労働組合の密接な連絡の下、全国的な賃金調整システムも導入した。国際競争力の維持のためだ。
具体例を挙げよう。シンガポール航空である。72年の会社新発足に当たり私は従業員に「世界中の航空会社では飛行機の性能や、整備能力には大きな差がない。差が出るのは一朝一夕にはできない組織の効率化、経営、そして賃金、乗客へのサービスだ」と呼びかけた。産業が発展していない発展途上国で航空産業に参入できるのかという懐疑的な見方もあった。しかも政府の保護がある国内線を飛ぶのではない。欧米の人々は豊かになって、店でも機内でも顧客サービスに熱心でなくなってきた。丁重で迅速な機内サービスで、世界のエアラインに乗り旅慣れた乗客の認知も獲得できた。20年後、世界でも最高の航空会社として国際社会に認知されたのだ。
このようにしてわれわれの経済は欧米主要先進国と肩を並べる水準に達した。
国民に「いま何が欲しい」と世論調査をすれば、答えは新聞に論説を自由に書く権利とはならないだろう。住宅、医療、雇用、教育であることに疑問の余地はない。それにこたえることが私の目標であり、私はそれを成し遂げた。
(シンガポール上級相)
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SingaLife編集部
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